澄川喜一 そりのあるかたち
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彫刻家として

澄川喜一とアトリエ幼いころから絵描き

私は、幼いころから絵描きになることが夢でした。
軍人になることを良しとされる戦時下の中学入試(当時11歳)において、
「将来絵描きになりたいです」と胸を張って返答し、結果は見事不合格。
青春の挫折を味わいました。しかし、不合格であるが故、戦争に行かずに
済んだと言えるでしょう。

その後、戦火に散った従兄弟たちの悲しみを胸に、故郷の橋・錦帯橋を
スケッチすることに没頭しました。美しいアーチを描く錦帯橋に魅了され、
橋を写生しながら、この橋の成り立ちについて詳しく調べ始めました。
このことが今の私の環境造形を手掛ける原点となります。

また、錦帯橋を調べたことから、法隆寺や東大寺といった
日本の古い建築についても調べるようになりました。
日本独自の木造遺構は汲めども尽きない知恵に溢れ、壮大なスケールの計画に驚き、
彫刻家を志すきっかけとなったのです。

 

 

優雅な曲線が脳裏に

「橋の曲線がなんと優雅なんだろう」

終戦直後の昭和20年9月。夕暮れのさわやかな風に吹かれ、下宿先から橋まで散歩に出かけた。
空襲の恐怖からも解放され、生活も穏やかさを取り戻し始めていた。そんな中で見た美しい木造の橋は、
よけいに脳裏に焼き付いた。14歳の時だった。絵が好きで、以来、毎日のように写生に出向いた。

その橋は山口県岩国市にある日本三名橋の錦(きん)帯(たい)橋。
13歳で旧制の岩国工業学校(5年制)の機械科に入学した。生まれは島根県の山村。
山口県に近く、進学には岩国市の学校が便利だった。幸いにも親類がおり、下宿することができた。

幼少時にも錦帯橋は見ていた。学校で製図などを勉強するうちに、その構造美に気付いたのだ。
下宿先から錦帯橋までは500メートルほど。翌夏には橋のたもとで泳いだ。はだしで橋を歩いていると、わずかに揺れる。
「木は生きている」と実感した。木の心地よさと、反(そ)りと起(むく)りのある造形美に魅せられた。

「反りと起りは同じ。要するに日本刀を横にして刃を上にすると起りで、下にすると反り。
京都の寺でも柱が途中が膨らんでいる。それが起りで温かい印象を与える」。
いつか木を使って形を表現したいと思うようになった。

 

「五重塔」に興奮

五重塔小学生のころから手先が器用だった。木や竹を使いグライダーの模型を作って飛ばしたりも。
工業学校を選んだのは「ものづくりがしたかった」からだった。錦帯橋の模型も木で造ったりしていた。

ある日、教室で、東京美術学校(現・東京芸大)出身の美術教師が
「錦帯橋に驚いていたらだめだ。京都や奈良には五重塔などすごい建築がある」と教えてくれた。
すぐさま学校の図書館や先生の家を訪ね、お邪魔して書物で法隆寺の五重塔などを調べ始めた。

「五重塔の反った屋根が天に向かって伸びる雄姿。
  しかも地震や台風をものともせずに1300年もの間、建ち続けているではないか」。

塔の中央を貫く心(しん)柱(ばしら)が地震の揺れをやわらげていることも知った。
熱中して、木で五重塔の模型まで作ってしまった。もちろん心柱も込めた。

しかし、しょせんは想像の世界。実物は、はるかに刺激的だった。
実際に見たのは工業学校3年生の秋、京都・奈良への修学旅行でだった。

法隆寺の五重塔を目の前に
「低くどっしりした本堂に対して、スリムな五重塔が空に伸びている。なんとバランスがとれているのだろう」と興奮した。
東大寺南大門では鎌倉時代に活躍した仏師、運慶と快慶の彫刻を見た。

「すごい迫力。本当に人間が造ったのだろうか。彫刻もおもしろい」と思った。
彫刻家への道を確信した瞬間だった。錦帯橋を見て以来、将来は木の造形を作りたいと思っていた。

 

 芸大に一発合格

工業学校を卒業する半年ほど前、両親に「彫刻を学ぶために東京芸大に進学したい」と打ち明けた。
しかし、会社員を望む父の怒りはすさまじかった。「何が彫刻家だ。食えるわけがないだろう!」。
泣く泣く地元の製紙会社に勤めたが、「いつか彫刻を学びたい」と、湿気の多い工場の中で汗水流して紙づくりに励んだ。

しかし、「これは自分のやりたい仕事ではない。好きなことをやりたい」と思いは強まり、半年もたたずに退職。
「東京芸大を受験したい」と家出を覚悟して数日間、必死に父親を説得した。
その熱意は伝わり、「1回だけならいい。落ちたら地元で働け」と許しを得た。
上京の朝、仏壇に手を合わせる祖母の姿が見えた。
しかし、聞こえてきたのは「絶対に受からないように」という言葉。ショックだった。

ところが、デッサンが得意だったため受験には一発で合格した。
少年時代に感銘を受けた「反り」と「起り」を生かした彫刻は、一世を風(ふう)靡(び)する。
一気に著名な彫刻家へと上り詰めた。

 

東京スカイツリーのデザイン監修者となっても、このデザイン思想を通した。
「反り」と「起り」は、見る場所によって微妙に反ったり膨らんだりという斬新なデザインに反映された。
かつて模型の五重塔の中に込めた心柱も、地震対策として採用された。
過去の体験が現代と見えない糸でつながっていた。

「80年の人生で思うことは、意志を貫くことの大切さ。信念に基づき好きなことをする。
陳腐かもしれないが若い人に言いたいことは、好きなことを簡単にあきらめるなということ。
やり続ければいつか夢はかなう」

(インタビュアー 渋沢和彦)
記事参照:http://de-wa-news.iza.ne.jp/blog/entry/2660050/



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作品写真撮影:村井修、江崎義一、内海敏晴  ポートレート撮影:秋山庄太郎  協力:月刊美術、黒髪石材株式会社
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